1996-04-04 第136回国会 衆議院 安全保障委員会 第4号
私にとっても、私は出征兵士ですけれども、十八年に召集令状で高崎連隊へ入りまして、豊橋第一陸軍予備士官学校を卒業しましたが、卒業と同時にほとんど全部沖縄本島です。私は一中隊の一番で、教官で残った。三中隊の一番は伊藤淳二君ですよ。鐘紡の会長を長くやられて日航の社長になったでしょう。彼と僕は同期ですよ。
私にとっても、私は出征兵士ですけれども、十八年に召集令状で高崎連隊へ入りまして、豊橋第一陸軍予備士官学校を卒業しましたが、卒業と同時にほとんど全部沖縄本島です。私は一中隊の一番で、教官で残った。三中隊の一番は伊藤淳二君ですよ。鐘紡の会長を長くやられて日航の社長になったでしょう。彼と僕は同期ですよ。
○国務大臣(大出俊君) 私、「ドキュメント太平洋戦争」というのを勉強したことがございませんので、合いきなりそういうお話を承りまして、これはとっさに頭にあることぐらいしか答えようがないんですけれども、私も実は出征兵士でございまして、高崎連隊に赤紙で持っていかれて、その後、豊橋の予備士官学校に持っていかれまして、私の同期、豊橋の十一期というのはほとんど全部沖縄本島に参りまして、一年間一緒に兵営でいろんな
○大出委員 これは、私も旧軍の豊橋予備士官学校出身の少尉でございまして、私の同期三百何十人ほとんど沖縄で死んでおりまして、豊橋の十一期というんですが、皆さんが御存じの方には、鐘紡の会長を昨年七月までやっておられた伊藤淳二君であるとか、これは私一緒にやっておった仲間でありまして、大正大学の学長で、亡くなりましたが安居香山君、これは僧籍にあるお坊さんですけれども。
しかも豊橋陸軍予備士官学校の十一期でございまして、卒業して見習い士官になった途端に、私は一中隊の一番だから幹部候補生教育の教育要員に残された。鐘紡の会長をやっておった伊藤淳二君なども、これは三中隊、私は一中隊ですが、一番だから教育要員で残った。ついこの間死んだ大正大学の学長の安居香山君なども教育要員で残った。
以下、ちょっと読み上げにくい、私自身が兵隊なものですからちょっと物を言いにくくなりますが、私は豊橋の第一陸軍予備士官学校の十一期でございまして、鐘紡の会長などをやっていた伊藤淳二君だとか、今雅叙園観光ホテルの総支配人工藤勉君だとか、この間死にましたが、大正大学の学長の安居香山君だとかみんな私の同期、生き残りでございます。
そして学徒動員として、現在東北大学の教養学部に一部残っておりますが、ここの予備士官学校を卒業して、第一線の小隊長としてみずから指揮をとった体験を持っております。 結論的には、当時、言うなら統帥権は大元帥陛下のもとにあった。
千六百名の特別陸軍予備士官部隊、志願制、常時招集可能な態勢に置き、年間二週間の訓練を受ける、海外勤務は六カ月を限定とし、隊員は年間百五十ポンドの報酬を受ける、こういうふうに、英国は大国として、国際政治に大きな影響を持っておる国としてこういう姿勢をとっておる。 私は、日本もアジアでは、特に先ほど申しましたような、社会党の我々が言っているような態度をとるべきだ。
台湾人元日本兵の人たちに対する措置という問題については、自民党の有馬先生を中心にして大変な努力をされ、それが我々、各党の協力も得ながら実施を見たわけでございますけれども、個人的なことになりますが、三年前に熊本の予備士官学校当時の戦友が四十七年ぶりに集まったときに、台湾人元日本兵の問題は早期に解決してもらいたいという強い要請を受けたり、この法案が成立した後、去年会合を持ちました際には、現地に行かれた中隊長
私どもかつて予備士官学校を出て九州あたりに着任できるかと思ったら、満州に紙切れ一枚でやられたときには、三千キロのかなたに親戚、兄弟と水杯して行ったことがある。三千キロと九千キロ、長官、どっちが距離は長いのか。アメリカはそういう考え方なんだ。 この間ヨーロッパに総理のお供をして行った。まずイタリアに行った。午さん会でどういうことを国会議員は言ったか、あなたは日本の防衛計画についてどう思うか。
其の三つは私が豊橋第一陸軍予備士官学校の出身であり、同期の見習士官の殆んどが少尉になる前に沖縄で戦死をしているという悲惨な体験から、何としても日本の平和を守り抜きたい、ということでございました。
これまた大変な話になりますが、私軍隊へ行ってまいりまして、昔予備士官学校が二つもあったけれども、別にそれで非常に規格が違ったということもないじゃないか、要は心構えの問題であろう、むしろそれぞれのところで競争させた方が、一つの施設でやるよりはいいんじゃないか。私はこれも活字にしたことがございます。 それからまたもう一つ、背後に向こうの方の腕力の強い弁護士がいて日本の弁護士がかいらいになると。
それから三ケ月先生、司法制度の問題で話がありましたけれども、私も予備士官学校を出ましたが、これは消耗品をつくるところでございまして、国内にも相当あり、また私、中支でしたが、こっちにもあり、各所にありましたから、これとの比較はちょっと無理だろうと私は思うのです、貴重な御意見をいただきましたけれども。
○中曽根内閣総理大臣 人間にも歴史がありまして、やはり石橋さんも予備士官学校へいらして軍隊教育を受けられたからおわかりだと思いますが、私らもやはり海軍の教育を受けたり、また戦争前の学生時代を送った人間ですから、そういう人間のにおいとかしみというものはついているのだろうと思います。 大東亜戦争という名前がいいか悪いか。飛鳥田さんも使ったことがあるのですよ。
私は、何もいま非武装中立論を述べているのじゃないので、質問をしているわけでございまして、総理、私の豊橋第一予備士官学校の同期は群馬県高崎の連隊から出てまいりまして、私もあなたのふるさと群馬県高崎連隊ですから、ほとんど死んでしまっているわけですから、また日本が廃墟になるなどということは何が間違ってもさせたくないという気持ちを持っておりますから、その限りでは同じでしょう。
戦前の商船というのは、船長は海軍の予備士官か船員もまたそういう訓練を受けたような方々がほとんどだと。だから、ある意味で言えば艦隊訓練といいますか編隊航行といいますか、そういうものができた。いまの商船はとてもそんなことはできやせぬ。そして私は運輸省に、最近におきます日本へ外国から参ります船の数字というものを聞いてみました。
私は豊橋の予備士官学校の出身だから、当時から大崎に行って教わっておりましたが、確かにそのとおりだ。酸素魚雷、これは優足性が高い。優足というのは速いということだ。べらぼうに速い。航続距離は長い。だから、アメリカは優足性の高いこれをどうしても欲しい。二十と四十五なんだからメリットが高い。ところが、日本の方はホーミング装置を持っていない。だから目玉がない。
それからまた、さっき紹介しました制服の方々のいろんなものを読んでみると、戦前の商船というのは大体、船長さんとかそれから船員の皆さんは、予備士官だとかあるいは海軍の経験があるとかそういうことですから、たとえば軍艦と共同行動をとるにしましてもある程度のことはやれたという。いまはそんなことは全然できないから、護衛艦の一隻や二隻行ったところで、とてもではないけれどもできる仕掛けのものではない。
私は、これ古い話ですけれども、かって予備士官学校で、これは戦時中の充足率というのは、戦史ということでございますけれども、七〇%を割ったらもう攻撃は不可能だ、五〇%を割れば防御そのものもむずかしくなるというのが一般軍事的常識なんですね。
私どものように、豊橋の第一予備士官学校出身、私は少尉でございますから、いま自衛隊の部隊に行きますというと、先輩、と挙手の礼をされる。先輩と言われてみると確かに先輩なんですね。われわれサーベルか何か提げるようになった人間はまだいいんだけれども、まさに、はがき一本、強制的に召集された、おまえはきょうから地方人ではないと言われたところから苦役が始まる。奴隷的拘束が始まる。
戦災死没者が五十万人、実は大変な犠牲でございまして、私なども豊橋の予備士官学校出身でございますから、同期ほとんどが沖繩に行っておりますから、たくさんの同僚が死んでいます。それだけに私は、戦後の憲法というものはどうしても守り抜きたい、こう思ってきているわけであります。 そこで承りたいのでありますけれども、自民党の皆さんの全国研修会で総理が基調演説をなさっておる。